今朝の放送内容 1月24日(火)
2023年1月24日(火)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●少子化に「次元の異なる対策を実現する」 岸田総理が施政方針演説で強調
●道内感染者664人 3か月ぶり1千人下回る 全国3万1千人
●新型コロナの類型見直し議論「5類移行は必要」意見多く
●春闘スタート 経団連・連合トップ会談 物価上昇「転換点」で賃上げ実現を
●旧統一教会 信者同士の養子縁組 厚労省が行政指導
●羅臼沖で海難救助実証実験
●百年記念塔 きのうから解体工事開始
●母親開設のネットショップで不正利益 札幌市の親子逮捕
●多くの企業で価格転嫁進まず 帝国データバンク調査
●国公立大学の2次試験願書受け付け きのう開始
●米女子プロゴルフツアー ヒルトングランドバケーションズ・チャンピオンズ
畑岡奈紗選手 開幕戦逆転優勝ならず5位「これからのシーズンにつなげていきたい」
●大相撲初場所優勝の貴景勝が会見「2回の回り道無駄ではなかった」
●第71回日本スポーツ賞 大賞に高木美帆選手 オリンピック特別賞に小林陵侑選手
●マラソン新谷仁美選手が会見「4つの日本記録を獲ることがひとつの目標」
●NPB 大谷ルールを今季から導入 先発投手が降板後も指名打者で出場可能
●コンサドーレ沖縄キャンプ ミニゲームで備え
●アイスホッケー全国高校選手権 きょう決勝 駒苫VS武修館
●NBAウィザーズ八村塁選手 レイカーズへ移籍か 最終交渉中と米報道
●ファイターズ新人合同自主トレ
育成ドラフト3位・山口アタル選手 自慢のパワーで支配下目指す
●道内感染者664人 3か月ぶり1千人下回る 全国3万1千人
●新型コロナの類型見直し議論「5類移行は必要」意見多く
●春闘スタート 経団連・連合トップ会談 物価上昇「転換点」で賃上げ実現を
●旧統一教会 信者同士の養子縁組 厚労省が行政指導
●羅臼沖で海難救助実証実験
●百年記念塔 きのうから解体工事開始
●母親開設のネットショップで不正利益 札幌市の親子逮捕
●多くの企業で価格転嫁進まず 帝国データバンク調査
●国公立大学の2次試験願書受け付け きのう開始
●米女子プロゴルフツアー ヒルトングランドバケーションズ・チャンピオンズ
畑岡奈紗選手 開幕戦逆転優勝ならず5位「これからのシーズンにつなげていきたい」
●大相撲初場所優勝の貴景勝が会見「2回の回り道無駄ではなかった」
●第71回日本スポーツ賞 大賞に高木美帆選手 オリンピック特別賞に小林陵侑選手
●マラソン新谷仁美選手が会見「4つの日本記録を獲ることがひとつの目標」
●NPB 大谷ルールを今季から導入 先発投手が降板後も指名打者で出場可能
●コンサドーレ沖縄キャンプ ミニゲームで備え
●アイスホッケー全国高校選手権 きょう決勝 駒苫VS武修館
●NBAウィザーズ八村塁選手 レイカーズへ移籍か 最終交渉中と米報道
●ファイターズ新人合同自主トレ
育成ドラフト3位・山口アタル選手 自慢のパワーで支配下目指す
今朝の選曲
【5時台】
M「少女/五輪真弓」
【6時台】
M「Loving you /原由子」
【7時台】
M「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ/ジョニー・ナッシュ」
M「少女/五輪真弓」
【6時台】
M「Loving you /原由子」
【7時台】
M「アイ・キャン・シー・クリアリー・ナウ/ジョニー・ナッシュ」
あさミミ!アラカルト~八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 世界を教えてくれたギド・ブッフバルト 」
2023年に記念の年を迎えるものがいくつかあります。
例えば東京タワーが65周年。人生ゲームは55周年。
東京ディズニーリゾートは40周年・・。
そんな中、今年30周年を迎えるのがサッカー「Jリーグ」。
ワールドカップに出るにはサッカーの「プロ化」が絶対必要であるということから立ち上げられた、
野球に次いで日本で新設されたリーグです。
そのJリーグ2年目となる1994年から浦和レッズに加入し、
世界のディフェンダーレベルというのをJリーグにもたらしてくれたのが、
1月24日に62歳のお誕生日を迎える、ギド・ブッフバルトさんです。
ギド・ブッフバルト、本名ギド・ウルリッヒ・ブッフバルトさんは、
1961年1月24日生まれ、ドイツ出身のサッカー指導者、元サッカー選手。
元ドイツ代表のディフェンダーとして活躍しました。
1969年、8歳のときにSVバンバイルに入団、サッカーを始めます。
子供の頃から身長が高かったため、ポジションはFWでしたが、17歳のときにボランチに転向。
1978年、18歳のときにはドイツ2部のシュツットガルター・キッカーズと契約し、プロデビュー。
入団1年目からレギュラーとして活躍します。
1980年には西ドイツU21代表に選出され、
1983年にはドイツ1部のシュツットガルトに移籍を果たします。
このシュツットガルトには11シーズン在籍、ボランチやセンターバックとして活躍し、
2度のリーグ優勝を経験するなど活躍しました。
その活躍が認められ、1984年、西ドイツ代表に初選出されると、
1990年、1994年と2大会連続でワールドカップに出場するなど長く代表選手としても活躍します。
中でも主力として臨んだ1990年のワールドカップイタリア大会では、
決勝戦のアルゼンチン戦で当時のエース、マラドーナさんを徹底的に封じ込めることに成功。
西ドイツの優勝に大きく貢献します。
大会MVPこそ得点王で後にジュビロ磐田に入団するスキラッチさんに譲りましたが、
影のMVPと称えられる活躍でした。
結局ブッフバルトさんは、ドイツ代表として76試合に出場、
ドイツブンデスリーガでは325試合に出場するなど、
ドイツの代表的なプレーヤーとして活躍しました。
そんなブッフバルトさんは1993-1994シーズンもシュツットガルトで主力として活躍していましたが、
Jリーグの浦和レッズからオファーを受け、シーズン途中からの入団を決意し日本へ。
1994年のJリーグ2ndステージ第一節横浜マリノス戦で日本デビュー。
しかしそのデビュー戦は0ー3で敗北を喫します。
第2節からはセンターバックに入り、田口禎則さん、曺貴裁さんらと強力なディフェンスラインを形成。
今ではJリーグ屈指のビッグクラブとなった浦和を、
近年の浦和しか知らないサポーターの方にはにわかには信じられない話ですが、
Jリーグができた当初の浦和はとにかく弱く、失点数も最多。
「Jリーグのお荷物」という不名誉ないわれようでした。
ただ、そんな浦和レッズを見事に安定させる活躍をブッフバルトさんは見せました。
そして、第7節横浜フリューゲルス戦では、試合終了間際に劇的な決勝点をマークし、
攻撃センスも日本のサポーターに見せます。
結果来日初年度の1994年シーズンは、最終戦の途中交代をのぞき、フル出場を続け、
レッズの守備を前年より見違えるように安定させたることに成功します。
そして翌年の1995年、今度はドイツ人監督であるホルガーオジェックさんが指揮官に就任すると、
ブッフバルトさんは益々の活躍を見せます。
3バックの中央で起用されると、相手の攻撃の芽を摘み、積極的なオーバーラップを見せ、
ビルドアップの中心として活躍。
この安定した活躍の影響もあり、当時の浦和の攻撃陣、バイン選手、福田正博、岡野雅行という面々が輝きを見せ、
1stステージ終盤には6連勝を記録し3位に入り込むなど、「お荷物からの脱却」に大きく貢献します。
後半の2ndステージも開幕戦でゴールを決め、序盤から4連勝するなど、
飛躍を期待されたが、中盤で7連敗を記録するなど失速。
最終的には8位となりましたが、年間成績では4位に入り、
ブッフバルトさんはJリーグベストイレブンに選出されました。
1996年シーズンも中心選手として活躍。
年間順位は6位だったものの、リーグ最少の31失点に抑える活躍を見せ、この年もベストイレブンに選出。
更に翌1997年シーズンは、推定年俸1億2000万円で契約を更改。
チームの大黒柱として圧倒的な存在感をだったブッフバルトさんは36歳という年齢にも関わらず、
体力的な衰えを見せず、フル出場を続けチームを牽引します。
ただ、相変わらずチームはこのシーズンも優勝戦線に絡むことはできず、
年間順位10位という成績となり浦和を退団します。
その退団セレモニーには白馬に乗って登場。
当時、外国人選手の大々的な退団セレモニーは非常に珍しい時代でしたが、
いかにチームに、そしてサポーターに惜しまれたのかがよくわかるエピソードです。
そして、ブッフバルトさんが帰国すると、
1999年、浦和レッズはついにJ1年間順位で16チーム中15位となり、屈辱のJ2降格となってしまいます。
なんとか1年でJ1へ再昇格を果たすものの、2001年10位、2002年11位を優勝争いには程遠い順位でした。
そんな浦和にブッフバルトさんが戻ってきた2002年。
この年から浦和レッズのテクニカルディレクターを務めると、2003年には6位、
2004年からはついに監督を務め、その年に2位。
翌2005年には天皇杯で優勝、リーグ戦でも2位という好成績を収め、
ついに2006年には、リーグ優勝、天皇杯で優勝!
これが浦和レッズ史上初の優勝であり、元Jリーガー監督としても初の優勝という快挙を達成します。
この年ブッフバルトさんは年間最優秀監督賞も受賞。
この年は田中マルク闘莉王さん、小野伸二さん、長谷部誠さんなど日本代表となる選手を中心に戦力も充実。
かつて「お荷物」とまで言われたチームを自らのプレーで鼓舞し、監督として率いると優勝に導くという、
浦和レッズの歴史の中で欠かすことができない存在となりました。
そして2019年にはJリーググローバルアンバサダーに就任。
先のW杯では予選敗退したドイツに対し意見を述べる一方、
日本サッカーへの賛辞のコメントも出してくれました。
ブッフバルトさんがあの日世界のサッカーを教えた日本は
母国ドイツを上回る成績をW杯の舞台で出せる時代となりました。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は「 世界を教えてくれたギド・ブッフバルト 」
2023年に記念の年を迎えるものがいくつかあります。
例えば東京タワーが65周年。人生ゲームは55周年。
東京ディズニーリゾートは40周年・・。
そんな中、今年30周年を迎えるのがサッカー「Jリーグ」。
ワールドカップに出るにはサッカーの「プロ化」が絶対必要であるということから立ち上げられた、
野球に次いで日本で新設されたリーグです。
そのJリーグ2年目となる1994年から浦和レッズに加入し、
世界のディフェンダーレベルというのをJリーグにもたらしてくれたのが、
1月24日に62歳のお誕生日を迎える、ギド・ブッフバルトさんです。
ギド・ブッフバルト、本名ギド・ウルリッヒ・ブッフバルトさんは、
1961年1月24日生まれ、ドイツ出身のサッカー指導者、元サッカー選手。
元ドイツ代表のディフェンダーとして活躍しました。
1969年、8歳のときにSVバンバイルに入団、サッカーを始めます。
子供の頃から身長が高かったため、ポジションはFWでしたが、17歳のときにボランチに転向。
1978年、18歳のときにはドイツ2部のシュツットガルター・キッカーズと契約し、プロデビュー。
入団1年目からレギュラーとして活躍します。
1980年には西ドイツU21代表に選出され、
1983年にはドイツ1部のシュツットガルトに移籍を果たします。
このシュツットガルトには11シーズン在籍、ボランチやセンターバックとして活躍し、
2度のリーグ優勝を経験するなど活躍しました。
その活躍が認められ、1984年、西ドイツ代表に初選出されると、
1990年、1994年と2大会連続でワールドカップに出場するなど長く代表選手としても活躍します。
中でも主力として臨んだ1990年のワールドカップイタリア大会では、
決勝戦のアルゼンチン戦で当時のエース、マラドーナさんを徹底的に封じ込めることに成功。
西ドイツの優勝に大きく貢献します。
大会MVPこそ得点王で後にジュビロ磐田に入団するスキラッチさんに譲りましたが、
影のMVPと称えられる活躍でした。
結局ブッフバルトさんは、ドイツ代表として76試合に出場、
ドイツブンデスリーガでは325試合に出場するなど、
ドイツの代表的なプレーヤーとして活躍しました。
そんなブッフバルトさんは1993-1994シーズンもシュツットガルトで主力として活躍していましたが、
Jリーグの浦和レッズからオファーを受け、シーズン途中からの入団を決意し日本へ。
1994年のJリーグ2ndステージ第一節横浜マリノス戦で日本デビュー。
しかしそのデビュー戦は0ー3で敗北を喫します。
第2節からはセンターバックに入り、田口禎則さん、曺貴裁さんらと強力なディフェンスラインを形成。
今ではJリーグ屈指のビッグクラブとなった浦和を、
近年の浦和しか知らないサポーターの方にはにわかには信じられない話ですが、
Jリーグができた当初の浦和はとにかく弱く、失点数も最多。
「Jリーグのお荷物」という不名誉ないわれようでした。
ただ、そんな浦和レッズを見事に安定させる活躍をブッフバルトさんは見せました。
そして、第7節横浜フリューゲルス戦では、試合終了間際に劇的な決勝点をマークし、
攻撃センスも日本のサポーターに見せます。
結果来日初年度の1994年シーズンは、最終戦の途中交代をのぞき、フル出場を続け、
レッズの守備を前年より見違えるように安定させたることに成功します。
そして翌年の1995年、今度はドイツ人監督であるホルガーオジェックさんが指揮官に就任すると、
ブッフバルトさんは益々の活躍を見せます。
3バックの中央で起用されると、相手の攻撃の芽を摘み、積極的なオーバーラップを見せ、
ビルドアップの中心として活躍。
この安定した活躍の影響もあり、当時の浦和の攻撃陣、バイン選手、福田正博、岡野雅行という面々が輝きを見せ、
1stステージ終盤には6連勝を記録し3位に入り込むなど、「お荷物からの脱却」に大きく貢献します。
後半の2ndステージも開幕戦でゴールを決め、序盤から4連勝するなど、
飛躍を期待されたが、中盤で7連敗を記録するなど失速。
最終的には8位となりましたが、年間成績では4位に入り、
ブッフバルトさんはJリーグベストイレブンに選出されました。
1996年シーズンも中心選手として活躍。
年間順位は6位だったものの、リーグ最少の31失点に抑える活躍を見せ、この年もベストイレブンに選出。
更に翌1997年シーズンは、推定年俸1億2000万円で契約を更改。
チームの大黒柱として圧倒的な存在感をだったブッフバルトさんは36歳という年齢にも関わらず、
体力的な衰えを見せず、フル出場を続けチームを牽引します。
ただ、相変わらずチームはこのシーズンも優勝戦線に絡むことはできず、
年間順位10位という成績となり浦和を退団します。
その退団セレモニーには白馬に乗って登場。
当時、外国人選手の大々的な退団セレモニーは非常に珍しい時代でしたが、
いかにチームに、そしてサポーターに惜しまれたのかがよくわかるエピソードです。
そして、ブッフバルトさんが帰国すると、
1999年、浦和レッズはついにJ1年間順位で16チーム中15位となり、屈辱のJ2降格となってしまいます。
なんとか1年でJ1へ再昇格を果たすものの、2001年10位、2002年11位を優勝争いには程遠い順位でした。
そんな浦和にブッフバルトさんが戻ってきた2002年。
この年から浦和レッズのテクニカルディレクターを務めると、2003年には6位、
2004年からはついに監督を務め、その年に2位。
翌2005年には天皇杯で優勝、リーグ戦でも2位という好成績を収め、
ついに2006年には、リーグ優勝、天皇杯で優勝!
これが浦和レッズ史上初の優勝であり、元Jリーガー監督としても初の優勝という快挙を達成します。
この年ブッフバルトさんは年間最優秀監督賞も受賞。
この年は田中マルク闘莉王さん、小野伸二さん、長谷部誠さんなど日本代表となる選手を中心に戦力も充実。
かつて「お荷物」とまで言われたチームを自らのプレーで鼓舞し、監督として率いると優勝に導くという、
浦和レッズの歴史の中で欠かすことができない存在となりました。
そして2019年にはJリーググローバルアンバサダーに就任。
先のW杯では予選敗退したドイツに対し意見を述べる一方、
日本サッカーへの賛辞のコメントも出してくれました。
ブッフバルトさんがあの日世界のサッカーを教えた日本は
母国ドイツを上回る成績をW杯の舞台で出せる時代となりました。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!