今朝の放送内容 1月10日(火)
2023年1月10日(火)
今朝の放送内容
今朝の主なニュース・スポーツ情報
●岸田総理が仏マクロン大統領と共同記者会見
●ブラジル議会襲撃 逮捕者1200人超
●「全国旅行支援」きょうから再開 割引率20%に引き下げ
●道内感染者1584人 全国9万2千人
●自民・麻生副総裁 防衛費増額への増税に理解求める
●鳥インフルでニワトリ998万羽を殺処分 過去最多に
●藤井五冠が羽生九段制す 歴史的タイトル戦・王将戦第1局
●中国「ゼロコロナ政策」終了でタイに直行便到着 規制をめぐり混乱も
●網走湖でワカサギ釣りが解禁 大勢の釣り人でにぎわう
●「寒締めホウレンソウ」の収穫始まる 名寄市
●サッカー全日本高校選手権決勝 岡山学芸館が岡山勢初のⅤ
●きのうの大相撲初場所 一山本2敗 北青鵬1勝1敗
●NBAネッツ・渡辺雄太選手がチーム1点差勝利に貢献
●米男子ゴルフツアー今年初戦 松山英樹選手21位
●フィギュアスケート羽生結弦氏 宮城県で開催のアイスショー出演へ
●ファイターズ 新庄監督がスタッフ会議に参加 就任2年目Ⅴへ「ガチモード」
近藤健介選手の人的補償 ソフトバンク田中正義選手獲得へ
9新人がプロの第一歩 合同自主トレ始まる
●スキージャンプHBC杯 女子は伊藤有希選手が制す 男子は山元豪選手が優勝
●IHアジアリーグ レッドイーグルスがプレーオフ進出
●ブラジル議会襲撃 逮捕者1200人超
●「全国旅行支援」きょうから再開 割引率20%に引き下げ
●道内感染者1584人 全国9万2千人
●自民・麻生副総裁 防衛費増額への増税に理解求める
●鳥インフルでニワトリ998万羽を殺処分 過去最多に
●藤井五冠が羽生九段制す 歴史的タイトル戦・王将戦第1局
●中国「ゼロコロナ政策」終了でタイに直行便到着 規制をめぐり混乱も
●網走湖でワカサギ釣りが解禁 大勢の釣り人でにぎわう
●「寒締めホウレンソウ」の収穫始まる 名寄市
●サッカー全日本高校選手権決勝 岡山学芸館が岡山勢初のⅤ
●きのうの大相撲初場所 一山本2敗 北青鵬1勝1敗
●NBAネッツ・渡辺雄太選手がチーム1点差勝利に貢献
●米男子ゴルフツアー今年初戦 松山英樹選手21位
●フィギュアスケート羽生結弦氏 宮城県で開催のアイスショー出演へ
●ファイターズ 新庄監督がスタッフ会議に参加 就任2年目Ⅴへ「ガチモード」
近藤健介選手の人的補償 ソフトバンク田中正義選手獲得へ
9新人がプロの第一歩 合同自主トレ始まる
●スキージャンプHBC杯 女子は伊藤有希選手が制す 男子は山元豪選手が優勝
●IHアジアリーグ レッドイーグルスがプレーオフ進出
今朝の選曲
【5時台】
M「世界は二人のために/佐良直美」
【6時台】
M「Precious /伊藤由奈」
【7時台】
M「バイ・バイ・ベイビー/ベイ・シティ・ローラーズ」
M「世界は二人のために/佐良直美」
【6時台】
M「Precious /伊藤由奈」
【7時台】
M「バイ・バイ・ベイビー/ベイ・シティ・ローラーズ」
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あさミミ!アラカルト~八幡淳のスポーツプレゼンス
八幡淳ならではの目線と感覚で
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は 「 V9の頭脳・名将森祇晶 」
プロ野球の名将の条件は勝利数、在任期間、勝率など様々ですが、
チームを日本一に導いた数というのも一つと言えるのではないでしょうか。
通算勝利数こそ歴代17位ですが日本一に導くこと歴代2位の6回の名将が
9日に86歳のお誕生日を迎えた
元西武ライオンズ監督「森祇晶」さん。
本名「森昌彦」さんは、1937年1月9日、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手。
中学生から野球を始め、2年生の時に捕手に転向。
岐阜県下随一の進学校、岐阜高校では3年生の1954年に夏の甲子園に強打の捕手兼主将として出場、
1回戦で泉陽高校に完封負けで敗退。
卒業後は立教大学進学も視野に入れたが、貿易商であった実家の経営が苦しくなったため
大学進学を断念。
同年11月14日に読売ジャイアンツへテスト入団し、契約金50万円で、
月給3万円の中から母親に仕送りを続けたそうです。
森さん、1年目の1955年は二軍スタートとなりますが、
6月にブルペン捕手の補充要員として一軍に昇格。
試合どころか練習を観察することさえ叶いませんでしたが、
この時に当時のエースであった別所毅彦さんと出会い、
別所さんに気に入られた森さんは猛烈なピッチング練習に付き合わされたおかげもあり、
2年目の1956年以降は徐々に出場機会を増やしていきます。
そして、当時正捕手を務めていた藤尾茂さんが打撃力を活かすため、
センターにコンバートされると、森さんは正捕手の座を射止め、
以降引退するまで正捕手の座を守り続けました。
ただ、1961年から就任した川上哲治監督は森さんを安住させないために、
アマチュア球界の有力捕手を次々に獲得、森さんにぶつけ続けます。
森さんも「キャッチャーは俺がいるのに、球団はどうして次から次にいい捕手を入れるのか」
と球団の補強策を批判していましたが、ついに現役引退までレギュラーの座を死守し続け、
中でも1965年からの9年連続日本一V9時代を支えました。
現役引退後は解説者や新聞の評論家を経て、
1978年、巨人時代のチームメイトだった広岡達朗監督の元で、
ヤクルトスワローズ一軍バッテリー兼作戦コーチに就任。
1年目に広岡さんの参謀役として球団史上初のリーグ優勝・日本一に導きます。
その広岡さんと再びタッグを組むのが1979年に埼玉所沢に誕生した西武ライオンズです。
1982年に西武ライオンズ一軍バッテリーコーチに就任。
ヤクルト時代同様に広岡をよく補佐した結果、この年球団初のリーグ優勝、
日本シリーズでは中日を4勝2敗で下し、西武になってから初めての日本一となります。
更に翌1983年もリーグ連覇を果たし、日本シリーズは巨人を4勝3敗で破り
2年連続日本一を達成します。
しかし1984年はリーグ優勝を逃し、西武を一度退団。
ただ、転機は突然訪れます。
1985年12月5日、契約を1年残して突然辞任した広岡監督の後任として、西武の監督に就任。
前年までコーチとして3年間在籍していて
「チームをよく知っている」として森さんに白羽の矢が立ちます。
監督1年目の1986年は、秋山幸二さん、辻発彦さん、渡辺久信さん、
工藤公康さんら若手が主力に成長。
さらにPL学園からは高校球界ナンバーワンスラッガー・清原和博さんが入団。
森さんは周囲の慎重論を押し切り高卒ルーキーの清原さんを1軍で起用し続け主力に定着。
最終的に打率.304、31本塁打で新人王に輝く活躍に導きます。
さらに投手陣も酷使を避けるために先発投手をより間隔をあけて、中5日~中6日で起用。
その結果、チームは近鉄バファローズと閉幕間際まで優勝争いを演じ、
10月9日2年連続リーグ優勝を決めました。
更にこの年の日本シリーズは広島東洋カープと対戦。
初戦引き分けの後3連敗を喫し、早くも王手をかけられたものの、
第5戦を投手の工藤公康さんによるサヨナラヒットで勝利するとそこから4連勝、
史上2度目の「3連敗からの4連勝」で逆転日本一を達成しました。
ここから森さん率いる西武ライオンズはいわば黄金期に入ります。
1987年は阪急ブレーブスとの優勝争いを制して10月10日3年連続優勝を達成。
日本シリーズは王貞治さん率いる読売ジャイアンツを4勝2敗で下し、2年連続日本一を達成。
更に1988年も、チームは開幕から独走。
ただ、7月以降徐々に近鉄に追い上げられ、10月5日に一時的に首位の座を明け渡します。
そして西武は10月16日に近鉄より先に全日程を終了、優勝は近鉄の結果待ちとなりましたが、
近鉄が10月19日の最終戦世にいう「10・19」川崎球場でのロッテ戦で引き分けに終わったため、
4年連続リーグ優勝が決定。
僅か3日後の10月22日からの中日との日本シリーズも4勝1敗で制し、
3年連続日本一を達成しました。もうこの時代の西武のイメージは「スキなし」。
コンピュータゲームでもその強さから常に人気のチームでした。
ところが、翌1989年は、最終的に近鉄、オリックスとの3つ巴による優勝争いとなり、
去年ラルフ・ブライアントさんをご紹介した時に出ました10月12日の近鉄とのダブルヘッダーで、
ブライアントさんに4打数連続ホームランを2試合に渡って浴び、
優勝の近鉄と僅か0.5ゲームの3位となり、84年以来5年ぶりに優勝を逃します。
この年、衝撃的な出来事が起きます。
それは10月19日、森さんはシーズン終了の報告のため当時オーナーの堤義明さんの下を訪問。
しかし、テレビカメラもいたその席で堤さんからかけられた言葉が・・
「(監督を)やりたいんだったら、おやりになればいいんじゃないですか。どうぞ。」
という言葉です。
優勝を逃したとはいえ勝率にして僅か2厘差ですが、
毎年優勝するのが当たり前のような雰囲気だった頃なので、
こうした発言があったのかもしれません。
この後留任を要請されましたが、ショックを受けた森さんは川上哲治さんに相談。
ただ川上さんからは「監督は誰でもやれる仕事ではない。
チャンスがあるのなら続けたほうがいい。」と諭されて留任・続投しました。
その後も1994年に退任されるまで4連覇を達成するなど、
西武ライオンズの監督期間9年で8回のリーグ優勝というとんでもない成績を残して退任。
2シーズン横浜の監督を務められた後はアメリカで永住権を取得。
2003年からハワイに移住されます。
そしてこれら功績が認められ2005年には野球殿堂入り。
結局森さんは日本シリーズに24回=現役時代に13回(巨人)、
コーチ時代に3回(ヤクルト1回, 西武2回)、監督時代に8回(全て西武)出場。
3回目の出場となった1961年から、22回目の出場となった1992年まで20回連続優勝(日本一)を経験。
厳しい基本指導の一方で、選手を前面に押し出し、
選手の自由も考慮したのびのびとした野球をやらせ、
選手たちの多くに慕われていた森さんの門下生たる主力選手は、
ほとんどが監督を経験しているなど人材を育てた功労者でもあります。
今はハワイの地で日本のプロ野球の発展をみまもっていてくれていることでしょう。
臨場感(プレゼンス)あふれるスポーツの話題をお伝えしています。
今回は 「 V9の頭脳・名将森祇晶 」
プロ野球の名将の条件は勝利数、在任期間、勝率など様々ですが、
チームを日本一に導いた数というのも一つと言えるのではないでしょうか。
通算勝利数こそ歴代17位ですが日本一に導くこと歴代2位の6回の名将が
9日に86歳のお誕生日を迎えた
元西武ライオンズ監督「森祇晶」さん。
本名「森昌彦」さんは、1937年1月9日、岐阜県岐阜市出身の元プロ野球選手。
中学生から野球を始め、2年生の時に捕手に転向。
岐阜県下随一の進学校、岐阜高校では3年生の1954年に夏の甲子園に強打の捕手兼主将として出場、
1回戦で泉陽高校に完封負けで敗退。
卒業後は立教大学進学も視野に入れたが、貿易商であった実家の経営が苦しくなったため
大学進学を断念。
同年11月14日に読売ジャイアンツへテスト入団し、契約金50万円で、
月給3万円の中から母親に仕送りを続けたそうです。
森さん、1年目の1955年は二軍スタートとなりますが、
6月にブルペン捕手の補充要員として一軍に昇格。
試合どころか練習を観察することさえ叶いませんでしたが、
この時に当時のエースであった別所毅彦さんと出会い、
別所さんに気に入られた森さんは猛烈なピッチング練習に付き合わされたおかげもあり、
2年目の1956年以降は徐々に出場機会を増やしていきます。
そして、当時正捕手を務めていた藤尾茂さんが打撃力を活かすため、
センターにコンバートされると、森さんは正捕手の座を射止め、
以降引退するまで正捕手の座を守り続けました。
ただ、1961年から就任した川上哲治監督は森さんを安住させないために、
アマチュア球界の有力捕手を次々に獲得、森さんにぶつけ続けます。
森さんも「キャッチャーは俺がいるのに、球団はどうして次から次にいい捕手を入れるのか」
と球団の補強策を批判していましたが、ついに現役引退までレギュラーの座を死守し続け、
中でも1965年からの9年連続日本一V9時代を支えました。
現役引退後は解説者や新聞の評論家を経て、
1978年、巨人時代のチームメイトだった広岡達朗監督の元で、
ヤクルトスワローズ一軍バッテリー兼作戦コーチに就任。
1年目に広岡さんの参謀役として球団史上初のリーグ優勝・日本一に導きます。
その広岡さんと再びタッグを組むのが1979年に埼玉所沢に誕生した西武ライオンズです。
1982年に西武ライオンズ一軍バッテリーコーチに就任。
ヤクルト時代同様に広岡をよく補佐した結果、この年球団初のリーグ優勝、
日本シリーズでは中日を4勝2敗で下し、西武になってから初めての日本一となります。
更に翌1983年もリーグ連覇を果たし、日本シリーズは巨人を4勝3敗で破り
2年連続日本一を達成します。
しかし1984年はリーグ優勝を逃し、西武を一度退団。
ただ、転機は突然訪れます。
1985年12月5日、契約を1年残して突然辞任した広岡監督の後任として、西武の監督に就任。
前年までコーチとして3年間在籍していて
「チームをよく知っている」として森さんに白羽の矢が立ちます。
監督1年目の1986年は、秋山幸二さん、辻発彦さん、渡辺久信さん、
工藤公康さんら若手が主力に成長。
さらにPL学園からは高校球界ナンバーワンスラッガー・清原和博さんが入団。
森さんは周囲の慎重論を押し切り高卒ルーキーの清原さんを1軍で起用し続け主力に定着。
最終的に打率.304、31本塁打で新人王に輝く活躍に導きます。
さらに投手陣も酷使を避けるために先発投手をより間隔をあけて、中5日~中6日で起用。
その結果、チームは近鉄バファローズと閉幕間際まで優勝争いを演じ、
10月9日2年連続リーグ優勝を決めました。
更にこの年の日本シリーズは広島東洋カープと対戦。
初戦引き分けの後3連敗を喫し、早くも王手をかけられたものの、
第5戦を投手の工藤公康さんによるサヨナラヒットで勝利するとそこから4連勝、
史上2度目の「3連敗からの4連勝」で逆転日本一を達成しました。
ここから森さん率いる西武ライオンズはいわば黄金期に入ります。
1987年は阪急ブレーブスとの優勝争いを制して10月10日3年連続優勝を達成。
日本シリーズは王貞治さん率いる読売ジャイアンツを4勝2敗で下し、2年連続日本一を達成。
更に1988年も、チームは開幕から独走。
ただ、7月以降徐々に近鉄に追い上げられ、10月5日に一時的に首位の座を明け渡します。
そして西武は10月16日に近鉄より先に全日程を終了、優勝は近鉄の結果待ちとなりましたが、
近鉄が10月19日の最終戦世にいう「10・19」川崎球場でのロッテ戦で引き分けに終わったため、
4年連続リーグ優勝が決定。
僅か3日後の10月22日からの中日との日本シリーズも4勝1敗で制し、
3年連続日本一を達成しました。もうこの時代の西武のイメージは「スキなし」。
コンピュータゲームでもその強さから常に人気のチームでした。
ところが、翌1989年は、最終的に近鉄、オリックスとの3つ巴による優勝争いとなり、
去年ラルフ・ブライアントさんをご紹介した時に出ました10月12日の近鉄とのダブルヘッダーで、
ブライアントさんに4打数連続ホームランを2試合に渡って浴び、
優勝の近鉄と僅か0.5ゲームの3位となり、84年以来5年ぶりに優勝を逃します。
この年、衝撃的な出来事が起きます。
それは10月19日、森さんはシーズン終了の報告のため当時オーナーの堤義明さんの下を訪問。
しかし、テレビカメラもいたその席で堤さんからかけられた言葉が・・
「(監督を)やりたいんだったら、おやりになればいいんじゃないですか。どうぞ。」
という言葉です。
優勝を逃したとはいえ勝率にして僅か2厘差ですが、
毎年優勝するのが当たり前のような雰囲気だった頃なので、
こうした発言があったのかもしれません。
この後留任を要請されましたが、ショックを受けた森さんは川上哲治さんに相談。
ただ川上さんからは「監督は誰でもやれる仕事ではない。
チャンスがあるのなら続けたほうがいい。」と諭されて留任・続投しました。
その後も1994年に退任されるまで4連覇を達成するなど、
西武ライオンズの監督期間9年で8回のリーグ優勝というとんでもない成績を残して退任。
2シーズン横浜の監督を務められた後はアメリカで永住権を取得。
2003年からハワイに移住されます。
そしてこれら功績が認められ2005年には野球殿堂入り。
結局森さんは日本シリーズに24回=現役時代に13回(巨人)、
コーチ時代に3回(ヤクルト1回, 西武2回)、監督時代に8回(全て西武)出場。
3回目の出場となった1961年から、22回目の出場となった1992年まで20回連続優勝(日本一)を経験。
厳しい基本指導の一方で、選手を前面に押し出し、
選手の自由も考慮したのびのびとした野球をやらせ、
選手たちの多くに慕われていた森さんの門下生たる主力選手は、
ほとんどが監督を経験しているなど人材を育てた功労者でもあります。
今はハワイの地で日本のプロ野球の発展をみまもっていてくれていることでしょう。
毎朝6時半頃は「あさミミ!アラカルト」
月曜日は油野純帆ANが担当
「ローカル情報発信!あぶらのチェック」
北海道生活が2年目の油野AN。179市町村のことをもっと知りたい!という
好奇心から、その週にピッタリのご当地情報を紹介する超ローカルコーナーです。
火曜日が「八幡淳のスポーツプレゼンス」
臨場感あふれるスポーツの情報・話題・歴史を紹介していきます!
水曜日が「あさミミ☆リサーチ」
毎週ひとつのテーマを設定。皆さんからメッセージをお寄せいただくコーナーになります。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
テーマによってはツイッターでアンケートも実施していきます。
木曜日が「ナガイの北海道生活研究室」
永井ANがいまリスナーと共有したい「北海道の生活情報」を伝えていきます!
金曜日が「北海道応援!あやサポ」
上田あやが北海道で頑張る「ひと」にスポットライトを当て、全力応援していきます!